子どもたちは遊びを呼吸しています。子どもは友達との遊びの中で、人間関係を学び、自己抑制を学び、文化を学び、体と心が鍛えられるのです。しかし遊びの真の意味は、そうした学習だとか鍛錬だとかにあるのではありません。遊びの目的は遊び自身です。子どもは遊びの中に解放され、文化の受けてから送り手、そして作り手へと変貌するのです。子どもにとって、遊びは生きる意味です。
遊びは自主的なものですから、大人の子どもの遊びへの関わりは、難しいものがあります。私自身の子どもの頃は、大人は子どもの遊びには関心を持たず、かつ、おおらかでした。それが「子ども達の遊び集団」が成り立つことを保証していた面があります。子どもたちは集団で、それこそ暗くなるまで遊んでいました。このような情景は今はあるのでしょうか。
もし、子ども達の外遊び集団が確保されるなら、それは素晴らしいことです。けれども今それは現実には難しいことなのかもしれません。子どもは子ども達どうしで遊ぶべきであり、子どもの遊びの伝統は子ども自身が伝えていくべきではありながら、現代ではそれはいろいろな困難がそれを妨げます。しかし、一度途切れてしまった伝承は、普通は復活しないのです。そこで、次善の策として、大人と子どもが一緒に遊ぶという方法が必要になります。私は長年にわたって、大人が昔の遊びを伝えるべきであることを訴えてきました。しかし近年は、それも難しくなってきました。伝承を受けなかった子どもたちが親の世代になってきたからです。実際、私が現職の教員の頃、「親子で楽しく遊んでくださいね。」とお話しすると、「何をしたらいいか分からないんです」と言われて驚いたことがありました。
そこで、次々善の策としてゲームの役割が考えられます。現在では、子どもの人数、理解度、好みなどに応じたよいゲームがたくさん手に入るようになってきました。これは子どもと何をして遊んだらよいか分からない大人にとっても、福音です。適切なゲームを選び、親子で楽しく遊べたのなら、子どもたちは今度は子ども達どうしで遊ぶでしょう。そうしてゲームの楽しさとルールに従う意味を悟った子どもたちは、きっと子ども集団でも遊びやすくなり、ひいては外遊びにもつながるのではないかと考えます。ゲームを親子で楽しく遊んでいただけることを、期待しています。それはゲームにも、親子関係にも豊かさを与えるでしょう。