今回は遊びの中でもゲームにひそむ民俗について考えてみましょう。
遊びに対してゲームは、自覚的にルールが明確化され構造化されていますので、民俗のような伝承的、儀式的、無意識的な側面は少ないように思われます。しかし、あたかも民謡のように、日本の各地に古くから伝わり、そこだけで遊ばれているようなゲームには、民俗が潜んでいると思われないでもありません。近頃「郷土ゲーム」の名で呼ばれるようなゲーム群が、その例です。例えば北海道の板かるた、青森のゴニンカン、岩手の黒札、山形の打毬、福島のドンゴロ独楽、群馬のお茶講や上毛かるた、東京のガラ札や東八拳、岐阜のどんどん拳、愛知のてんしょ、三重の漢詩かるた、滋賀のキャロム、京都の投扇興、大阪のむし、石川の旗源平やごいたやかっくり、島根の絵取り、愛媛のくじゅろく、高知の箸拳や花拳、長崎の本拳、熊本の球磨拳やうんすん、宮崎や鹿児島のなんこ、沖縄のチュンジーなどが挙げられます。
こうした遊びの中には、年中行事に組み入れられたり、ある年齢だけでやったり、決まった囃し言葉があったり、また相撲に似せた土俵や番付を作ったりといった、共通した特徴が見られるのもあります。お茶講などは、それでその年の豊作を占うなどの、予祝的な側面をもったりもするのです。また伝統ゲームの多くがそうであるように、これらのゲームの作り手には作者意識が薄く、民衆が作ったという側面があるのです。その意味では、郷土ゲームはそのまま民俗だともいえるでしょう。
これを世界に広げれば、そのまま民族ゲームへとつながるようにも思えます。私は、民族音楽とか、民族舞踊、民族料理があるように、民族ゲームがあってもよいと思います。そうして上記の郷土ゲームは、すなわち日本の民族ゲームといえるのではないかと思います。同様に、世界各地にその地域独特の民族ゲームが隠れていると推測しています。このようにゲームという側面から世界を捉えなおすことは、我々に世界の民俗に関する新しい視点を提供してくれるばかりでなく、ゲーム自身にも新しいアイディアの供給源になるだろうと予想できます。
現在グローバリズムの怒涛の前に、ローカリズムは危機に瀕しているとも思えます。民族ゲームの採取は、文化人類学にも、民俗学にも喫緊の課題と、私は考えます。