コラム

遊びに潜む民俗⑫

ライター:草場 純

 今回は花札について考えてみましょう。

 この6月に、江橋崇 法政大学名誉教授の『花札』法政大学出版局 が出ました。そこでは現在の通説と言ってよい「花札は花鳥合わせかるたから生まれた」説を、痛烈に批判する論考が展開されています。江戸時代の厖大な刑事資料・司法資料を渉猟し、花札が賭け事に用いられて罰せられた例の見えないことを示しました。と同時に、この連載ともかかわるのですが、民俗学批判もなされています。まあ、民俗学と言うより、柳田國男批判、あるいは柳田民俗学批判とでも言うべきかも知れませんが。

 柳田民俗学の基本概念の1つに「常民」があります。この常民という概念がたいそう分かりにくく、そもそも柳田自身の用法も、初期と晩年でとはかなり変化しているように思えます。ですが、ここでは細かい議論に突っ込む余裕もないので、ざっくり言ってしまいますが、要するに常民とは、普通の人、ということです。すると問題は柳田が、どういう人を「普通」と考えていたか、という話になります。江橋先生は、柳田の考える普通の人とは、農民を中心とした当時の庶民のことだと言い、私もそう思います。つまり生業につき、農事暦に沿って年中行事をこなし、通過儀礼を体験しつつ成長し、きちんと納税もする「普通の」人々ということですね。漁民や商人、僧侶や武士もそれに準じた行事や儀礼の中にあったと言えるでしょう。柳田は農林省の役人でしたから、そうした人々が望ましい人々であり、だからこそその儀礼やら、行事やらに注目していったのでしょう。

 ここで困ったことは、例えば江戸時代はそういう人ばかりがいたのではない、ということです。例えばヤクザや漂泊の民もいたのがその頃の様子のようです。ところが柳田の目からはそうした人たちが対象外になってしまうのですね。晩年は「山人」にも否定的なようです。しかし「遊びごと」というものは、むしろ子どもとか、やくざとか、漂泊民の中で生まれ、伝えられるも側面があります。ところが柳田の目にはそうしたものは映らなかったというわけです。そう言えば赤松啓介が批判するように、柳田は性とか賭博に関しては確かに冷淡です。こうして民俗学的資料から「ゲーム」が抜け落ちてしまう、そこを江橋先生は批判しているわけです。

 このような批判を裏付けるのが、柳田の主導した農村・山村調査です。大正期や昭和初期にいわゆる僻村に入って行って実地に聞き取り調査をする今で言うフィールドワークは、もちろん現在に至るまで、文化人類学の基本的な手法であり、時期からして実に貴重なデータで、学問としての遺産といってよいでしょう。しかし柳田は、そうした民俗学調査や地方史調査に、賭博関係の項目を一切入れなかったのです。それがあれば、我々の祖先の豊かな遊び文化がより多く伝えられたでしょうに。

 次回は花札の絵柄について見ていきましょう。(つづく)

初出:ゆうもりすと2014年2号


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