高度成長以降、いわゆる古いタイプの民俗は、廃れていくか廃れないまでも大きく変容するかを余儀なくされました。また、交通とマスコミュニケーションの発達は、日本から田舎をなくしたと言えるかも知れません。古いタイプの遊びも、それとともに多くが消え去っていきました。もちろん子ども達の中には新たな遊びが生まれ、新たな民俗が成立していくはずです。ボードゲームやカードゲームはもちろん、電子ゲームですらそうした新しい遊びと言えそうです。しかしあえてここでは、今も残る古い遊び、古いゲームに目を向けてみましょう。
東京の板橋には「赤塚の田遊び」と呼ばれる予祝行事が残っています。ただし、その根拠となるはずの田畑はもう殆どが住宅地と化し、いまや豊作を祈る意味が薄いことは否めません。参加者はもともと成人男子の農民達だったので、「遊び」と呼ばれてはいても子どもの遊びとは自ずと異なります。特に、これは夜祭ですので、夜更けになってくると台詞も所作も、いわゆる大人の領域となってきます。とはいえ、藁で人形を作って相撲をとってみたり、独特の節回しで問答を繰り返したりするところは、まさしく「田遊び」と名づけられた所以であり、子どもの遊びと深い関係がある(あった)ことは間違いありません。
群馬県中之条町白久保には、今でも「お茶講」が残っています。これは少なくとも18世紀から記録の残る、この地区独特の伝統行事であり、室町時代の闘茶の伝統まで遡れる、日本の文化遺産と呼んでもよいものです。そしてこれは、今でも毎年2月24日の夜、地域の大人も子どもも混じって繰り返される行事です。現在でも、その晩に集まった子どもらは、近くの村の天満宮にまで、灯篭を持って天神様を迎えに行きます。そうして天神様の掛図の前で、七服四種の茶を飲み比べてその順序を当てるのです。記録のとり方や、「かたくち」「鶯」「ささら紙」などと呼ばれる道具の工夫などを見るにつけ、遊びとして実に洗練されていることに感じ入ります。このようにして、年に一度のお茶講を楽しんだ子どもらが成人し、この地域に残れば、この「遊び」はまた次世代に引き継がれていくことになるのでしょう。
残念ながら、「田遊び」や「お茶講」が、現に今の子ども達の遊びに、どのような影響を与えているのかは、よくは見てとれません。しかしながら、遊びが地域のコミュニティに支えられ、楽しまれ、伝えられているこれらの伝統から今、現在のゲームやゲーム会に関わる者が学ぶことは、決して少なくないと私は考えるのです。